副島種臣 ~世界が認めた正義の外務卿~

人をとりこにする人柄と博識

出来の良い兄の影で悩む日々・・・

佐賀藩士枝吉南濠の二男として佐賀城下鬼丸町に生まれる。国学者である父と兄・枝吉神陽の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚める。7歳で藩校「弘道館」に入学。出来の良い兄の陰で、劣等感に悩む日々だったが、一念発起し21歳で弘道館首班を務めるまでになる。

 

大隈重信とともに脱藩、謹慎へ

32歳の時、父南濠が亡くなると同藩の副島利忠の養子となる。兄の「義祭同盟」にも参加。1867年には大政奉還を進めるために大隈重信と脱藩するが、捕えられて謹慎処分を受ける。

 

「正義の人」、下野後中国を旅する

明治政府では参与・制度取調局判事となり、1869年に参議、1871年に外務卿を歴任。明治5年のマリア・ルス号事件で「正義の人」として一躍国内外で脚光を浴びるようになる。翌年には台湾の宮古島島民遭難事件の処理交渉のために清を訪れ、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりも評価され、信頼を一層深めた。同年、征韓論争に敗れて下野。自宅を売り払い、中国大陸を旅行し見識を深める。後に明治天皇の待講を務め、天皇からも寵愛された。

 

学識、人柄、書才

西南戦争で敗れた西郷隆盛が日本の未来を託す遺言状の宛先に副島を選んだことからもわかるように、幕末維新期~明治初期の多くの英傑から全幅の信頼を受ける学識と人柄であった。

書家「蒼海」としても多くの作品を残し、その独創的な書は今もなお多くの人を魅了している。同じく佐賀出身の書聖、中林梧竹と共に近代書の源流と言われている。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え齢

出来事

1828(文政11年)・1歳

10月17日、佐賀藩士枝吉南濠の二男として誕生

1848(嘉永元年)・21歳

弘道館内寮生の首班となる

1852(嘉永5年)・25歳

京都に留学して、皇学を研究、「日本一君論」を説く

1859(安政6年)・32歳

佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗る

1865(慶応元年)・38歳

長崎の「致遠館」において、フルベッキより英学を学ぶ

1867(慶応3年)・40歳

大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説く

1868(明治元年)・41歳

新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられる

1869(明治2年)・42歳

参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置

1871(明治4年)・44歳

樺太の国境問題について露国領事と談判/外務卿となる

1872(明治5年)・45歳

マリア・ルス号事件

1873(明治6年)・46歳

清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見

1874(明治7年)・47歳

板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、民撰議院設立建白書提出

1876(明治9年)・49歳

霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出る

1879(明治12年)・52歳

宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられる

1891(明治24年)・64歳

枢密院副議長に任ぜられる

1892(明治25年)・65歳

3月、内務大臣に任ぜられるも6月辞任/再び枢密顧問官に

1905(明治38年)・78歳

1月31日、死去

人間としての法に従った正義の人

副島を語る上で外せないのがマリア・ルス号事件。明治5年(1872)に横浜港に停泊中のペルー船マリア・ルス号内で奴隷的扱いを受けていた清国人231人を解放した事件で、日本初の国際裁判だった。国際問題になることを恐れ、周りが不干渉を決め込む中、外務卿の副島は断固として人道主義・日本の主権独立を訴え、勝利を勝ち取った。この事件を機に、副島は「正義の人」として国際的にも広く知られるようになった。

 

▲明治5年、マリア・ルス号事件を担当していた頃の副島の肖像。

これぞ芸術家基質!?天下の無精者

藩校弘道館で寄宿舎生活を送っていたころ、朝起きると皆は裏の松原川で顔を洗うことになっていたが、副島は指を2本だけ濡らして、眼の縁を擦っただけで済ませていた。また、副島が養子に入った佐賀市西与賀町の今津周辺では、子供がいいかげんな風呂の入り方をすると、「二郎さん(副島の通称)の風呂入り」と叱られたのだとか。彼の豊かな髭もその証か。

 

▲副島ら弘道館学徒が顔を洗った松原川。

「書道デザイナー」独創的すぎる書

副島は「蒼海」の名で多くの書を残しており、その作品は書道界に大きな衝撃を与えた。作風は誰にも似ず、独創性にあふれ、文字というよりむしろ絵画のようにも見える。書道雑誌も蒼海を特集すれば良く売れ、展覧会の図録も売り切れてしまうほど。ちなみに佐賀県の地方紙「佐賀新聞」の題字も副島の作。

自由なる精神 天皇にも愛された人柄

副島は明治天皇に学問を講じる「待講」という職についていた。しかし周りのやっかみもあり、副島が辞職しようとした時、まだ続けて欲しいと天皇直筆の手紙を賜り、思いとどまったことがあった。また、副島の貧乏暮らしを見かねた天皇がお金を送った時には「名君は万人に平等であらねば」とこれを辞退。その男気あふれる高潔な人柄が愛されていた。

ギャラリー

▲「帰雲飛雨」(佐賀県立美術館蔵)。リズミカルに丸を重ねるように筆を走らせた、躍動感あふれる自由な書。

▲「春日其四句」 。幾何学的パターンを連ねた書はまるで絵画のよう。読みは「野は烟霞(えんか)の色に富み、天は花柳の春を縦(ほしいまま)にす」。

▲若き日の副島(左端)と大隈重信(右隣)とされる写真(大隈重信記念館蔵)

▲「富士山画詠額」(佐賀県立美術館蔵)。副島は息子・道正から「心配で通した一生」と称されるように、日本の将来を憂い続けた。右側の漢字・かなが入り混じった詩には、「ひと津可の石をそこ者く可さ根亭そ代爾多くひなき多可根とはなる」とある。

探訪コース

① 副島種臣生誕地

佐賀城南堀沿いにあった枝吉家の屋敷跡。現在は社会福祉会館の駐車場で、その石碑の揮毫(きごう)も見事。

徒歩約10分

 

② 佐賀県立美術館

「蒼海(そうかい)」の名で残した多くの書の作品が収蔵され、常設展示も数点。展示会なども企画されるので、まずはホームページで確認を。

徒歩約10分

 

③ 弘道館跡

藩校弘道館跡。裏手には松原川が流れ、寄宿舎時代に多くの仲間と共に過ごした生活が想像される。

徒歩約10分

 

④ 龍造寺八幡宮

義祭同盟の地。

 

徒歩約15分

⑤ 與賀神社(与賀神社)

副島の「神降百福」の直筆が社務所に、木額が本殿の拝殿正面に掲げられ、いつでも気軽に副島の書を拝める。

徒歩約30分

⑥ 高伝寺

鍋島家・龍造寺家の菩提寺で、兄・枝吉神陽の遺徳碑と並んで副島の墓がある。

 

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コラム「義祭同盟とは?」

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