佐野常民 ~揺るぎなきその博愛精神~

日本赤十字社の創設者

▲佐野40歳頃の胸部肖像(日本赤十字社蔵)

弘道館へ入学、諸国留学へ

早津江村(現佐賀市川副町早津江地区)に佐賀藩士・下村三郎左衛門の五男として生まれる。9歳の時に佐賀城下水ヶ江の佐賀藩医、佐野常徴の養子となり、医者を継ぐための勉強を始める。

13歳の時に藩校「弘道館」に入学。以降、江戸の古賀侗庵、佐賀の松尾塾、京都の広瀬元恭の時習堂、大阪の緒方洪庵の適塾、紀伊で華岡青洲の春林軒塾、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門。幾多の留学体験で幅広い学識を得た。

 

佐賀藩の工学系エキスパート

31歳の時に佐賀藩が設置した理化学研究所、精煉方の主任となり、日本初の蒸気機関のひな形等を完成。長崎では幕府の海軍伝習に参加し、後に佐賀の三重津海軍所で主要な役割を担い、国産初の実用蒸気船、凌風丸を完成させる。

 

赤十字との出会い、後の日本赤十字となる博愛社設立へ

1867年、パリ万博に参加する佐賀藩の代表として渡欧。そこで赤十字社の存在を知り、深い感銘を受ける。10年後に西南戦争が勃発すると、日本赤十字社の前身となる「博愛社」を設立、敵味方に関係なく負傷者の救護活動を行った。その設立には幾多の反対があったが、佐野はその信念を貫き、有栖川宮熾仁親王への直訴を行い、実現に至った。

他にも日本海軍創設の提言や灯台の建設、日本美術の保護団体の創設など、多彩に活躍。日本はまるで佐野に引っ張られるように近代化へ突き進んでいった。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え齢 出来事
​1822(文政5年)・1歳 12月28日、佐賀郡早津江に誕生
1831(天保2年)10 佐野常徴の養子となる
1835(天保6年)14 藩校弘道館に入学する
1837(天保8年)16 江戸の古賀侗庵、京都の広瀬元恭など、各地へ留学
1848(嘉永元年)27 大坂の緒方洪庵の適塾で学ぶ
1849(嘉永2年)28 江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる
1851(嘉永4年)30 長崎で塾を開く
1853(嘉永6年)32 佐賀藩精煉方主任となる
1855(安政2年)34 長崎で海軍伝習開始/国産初の蒸気機関車模型を完成
1858(安政5年)37 三重津に御船手稽古所(三重津海軍所の前身)が設置される
1865(慶応元年)44 三重津海軍所で蒸気船凌風丸完成
1867(慶応3年)46 パリ万博参加のため渡欧、赤十字社のことを知る
1872(明治5年)51 博覧会御用掛に就任し、日本初の博覧会を湯島聖堂で開催
1873(明治6年)52 ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任して、ウィーンに赴く
1877(明治10年)56 大給恒らと博愛社を創立/第1回内国勧業博を開く
1879(明治12年)58 日本美術の海外流出を防ぐために、龍池会(日本美術協会)発足
1882(明治15年)61 元老院議長に就任
1887(明治20年)66 博愛社を日本赤十字社と改称、初代社長となる
1888(明治21年)67 枢密顧問官に就任/磐梯山噴火の救援活動を行う
1902(明治35年)81 12月7日、東京の自宅で死去

相は闇の中。佐野常民生涯最大の謎

江戸の伊東玄朴の蘭学塾「象先堂」で勉学に励んでいた時のこと。塾にはヅーフ・ハルマというオランダ語の辞書があり、塾生はこれを奪い合うように勉強していた。ある日佐野はこれを持ち出し、何と30両(約360~390万円)で質入れしてしまったのだ。当然塾は破門され、佐賀に戻ることになるが、佐野は後年、その真相について決して話すことはなかった。誰にも話せぬ余程の訳があったのだろう。

 

▲伊藤玄朴も佐賀県神埼市の出身(「伊藤玄朴伝」所載)

人材は藩を救う!佐野の名スカウト術

「象先堂」を破門された佐野は江戸から佐賀に戻る際、京都で「からくり儀右衛門」として有名な田中久重親子ら4人の技術者をスカウトし佐賀に連れて帰る。当時の佐賀藩は二重鎖国をとっており、他藩の人間を雇うなんてもってのほか。佐野は何とかこれを説き伏せ、結果佐賀藩では蒸気機関の開発など、飛躍的な科学進歩を遂げることになる。

 

  

▲佐野がスカウトした田中久重(左)と息子の儀右衛門(中央)、石黒寛次(右)

"泣きの常民” 5つの涙のわけ

佐野がしばしば人前で涙を流したことは有名だが、中でも有名な「5つの涙」という逸話がある。それは博愛社設立の願書許可の際、精煉方の二代目田中儀右衛門の惨殺の際、パリでの野中元右衛門の客死の際、帆船購入に当たり賄賂の中傷で解任の際、そして鍋島直正の死の際。それ以外にも直正からの恩義にはよく涙していたとの話も。そんな男気あふれる涙が美しい。

 

▲博愛社設立許可の図(日本赤十字社蔵)。西南戦争の舞台となっている熊本にて。有栖川総督への直訴が叶った瞬間。

京都の街も救っている!冴えわたる「博覧会男」!

佐野はパリとウィーンの2回の博覧会に代表として出席し、「博覧会男」の異名を持っていた。国内初の勧業博覧会を開いたのも佐野。そんな折、東京遷都により京都から天皇が離れ、京都は衰退していた。そんな京都に佐野は路面電車を走らせたり、共通チケットやガイドブックを作ったり、新たな観光スタイルを樹立して、京都の街は見事復活。まさに「博覧会男」の面目躍如だ。

 

▲1867年、佐賀藩の代表として万博に出席する一同。後列左より藤山文一、深川長右衛門、前列左より小出千之助、佐野常民、野中元右衛門(「仏国行路記」所載)。

ギャラリー

▲「三重津海軍所之図」(鍋島報效会蔵)。佐野が監督を務めた海軍教練や修船の施設。日本初の実用蒸汽船凌風丸もここで完成した。

 

▲日本初の蒸汽車のひな形(鍋島報效会蔵)。

▲佐野40歳頃の肖像(日本赤十字社蔵)

探訪コース

① 佐野常民生誕地

佐野が9歳で佐野家の養子に行くまで暮らした地。大正1 5 年に記念碑が建てられ、その功績が顕彰されている。

徒歩で約10分

② 佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館

三重津海軍所跡の歴史と佐野常民の功績をわかりやすく学べる施設。体験学習施設としての機能もあわせもっている。

徒歩すぐ

③ 三重津海軍所跡(佐野記念公園)

佐賀藩が1858年に設立し、佐野が監督を務めた蒸気船等の船の修理・造船施設跡。平成27年7月に世界文化遺産に登録された。

車で約30分

④ 佐野常民旧宅地界隈

佐野が養子に出された藩医、佐野孺仙の屋敷跡。近辺は大隈重信生家など、当時の雰囲気が残る。町歩きにおすすめ。

車で約5分

⑤ 弘道館跡

佐野が通った藩校跡。

車で約10分

⑥ 精煉方跡

佐野が主任を務めた、幕末佐賀藩の理化学研究所。数多くの実験、研究が行われ、新しい技術の開発に成功していった。

 

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