成富兵庫茂安 ~肥前国随一の猛将は、日の本随一のグランドデザイナーへ~

武将から治水家へ鮮やかな転身

▲「錆色塗り紺糸威し仏二枚胴具足」(さびいろぬりこんいとおどしほとけにまいどうぐそく)(鍋島報公会蔵)

17歳で初陣、異例の出世

肥前国を治めていた龍造寺氏の家臣である成富信種の次男として生まれる。

11歳で主君の龍造寺隆信の小姓として仕えるようになり、17歳で初陣。以降、幾多の戦いで武功を上げ、豊臣秀吉の朝鮮出兵では鍋島直茂から全権を任されて活躍。また、その知略ぶりから多くの逸話を残し、佐賀藩に古くから伝わる武士道書「葉隠」にも多くのエピソードが残されている。

 

戦乱の世が終わり、水利事業へ着手

戦国の世が終わると藩内の禄高を上げるため、幾多の水利施設の整備を行う。その実施前には実際に模型を作って緻密な実験をしたと言われる。工事には地元の農民を作業に当たらせたが、農繁期には作業をさせないなど、その気遣いぶりで領民から親しまれた。

 

死してなお、その偉業は民を安んじる

茂安が各地に作った水利システムは複雑に組み合わさっており、どこかで不具合が生じるとシステム全体に影響が出るため、それに手を掛けることはタブーとされ、江戸期を通じて領内では水争いや百姓一揆がほとんど起こらなかった。

茂安自身は1634年、75歳でその生涯を閉じるが、彼の水利システムは今でも現役で、佐賀平野の稲田を潤し、日本有数の穀倉地帯たらしめている。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え齢

出来事

1560永禄3年)・1歳

誕生。幼名千代法師丸、のちに新九郎と名乗る

1570元亀元年)・11歳

今山の陣。隆信の小姓として仕えるようになる
1576天正4年・17歳 藤津郡横造城攻めに従軍し初陣を飾る
1580(天正8年)・21歳 筑後生駒城攻め。十の武功を上げ十右衛門賢種と改名
1589(天正17年)・30歳 天草騒動平定に加勢。加藤清正と出会う
1592(文禄元年)・33歳 文禄の役。龍造寺家の名代、鍋島直茂のもと朝鮮に出兵
1597(慶長2年)・38歳 慶長の役。鍋島勝茂(直茂の子)を助け朝鮮に出兵
1600(慶長5年)・41歳 関ヶ原の戦い。鍋島軍は西軍。伏見城などを攻める
1615(元和元年)・56歳

この頃から各所の水利工事を始める

  • 筑後川の千栗の土居(みやき町)
  • 脊振山の蛤水道(吉野ヶ里町)
  • 嘉瀬川の石井樋(いしいび)(佐賀市大和町)…等
1634(寛永11年)・75歳 9月18日、死去

初陣はフライング!父が救った命

若い頃の茂安は血気盛ん。11歳の時に若すぎると初陣の許可が出なかったため、独断で戦場で物見を行い、それが龍造寺隆信の目に留まり、以来小姓として使えるようになる。さらに18歳の時に博打にハマり父親の籾倉まで失ってしまう。

いっそ殺してしまえという親族に対し、父信種は一年だけ待ってくれと茂安を徹底的に指導。その心に打たれた茂安は見事更生を果たすのだった。

戦国一の策士!普請場の陣取り合戦

大阪での普請(工事)を命じられた時のこと。作業するため必要な場所は既に他藩が押さえていた。そこで、夜中にその脇の川の中に杭を打ち込み、翌日に「3日前に杭を打って場所を確保しておいたが、水が増えて見えなくなってるようだ」とその杭を引き抜き、その場所を横取りしてしまったんだとか。“茂安は戦国一の曲者(くせもの)”との異名さえついた。

ものしり坊主を取り込み政略のたすけにする

茂安が鍋島勝茂と共に江戸城に登城した際、湯をくれただけの坊主に茂安は独断で何と絹の反物十巻を送った。その後のアプローチもあり、その坊主は勝茂らの湯茶の接待など、厚く世話をするようになる。結果、坊主から城内の様々な情報が入るようになり、何事も都合よく運ぶようになったとか。

「眠るならそばに…」。養子に来た藩主の息子に慕われる

▲鍋島勝茂像(鍋島報公会蔵)

佐賀藩の初代藩主。龍造寺隆信の死後、正家・高房の死去を受け、父の直茂が藩祖・勝茂が藩主となって佐賀の地を納めた。

茂安は藩主・鍋島勝茂から、その四男の直弘を養子として預けられた。これは成富家の後継ぎとしてではなく、武士として立派に育てて欲しいという思いから。藩主の子供を預けられることから、いかに茂安が信頼された人物だったかが分かる。

直弘は後に鍋島家に復籍し白石鍋島家を興すが、その墓は直弘の遺言により、茂安と同じ本行寺に建てられている。

父子だった期間は短いものの、茂安と直弘の深い情愛が感じられる。

ギャラリー

▲多布施川の水で潤う佐賀市街地。この水の恵みも、成富兵庫成安の数ある水利事業の賜物だ。(画像提供:筑後川河川事務所)

▲嘉瀬川から佐賀城下へ水を取り込む巨大取水施設「石井樋(いしいび)」。その完成により洪水被害は減り、佐賀城下の水不足は解消された。(画像提供:筑後川河川事務所)

▲「錆色塗り紺糸威し仏二枚胴具足」(さびいろぬりこんいとおどしほとけにまいどうぐそく)(鍋島報公会蔵)。天草の戦いにおいて加藤清正に加勢したことから、清正より授けられた甲冑。

▲「梨子地扇文蒔絵鐙」(なしじおうぎもんまきえあぶみ)。成安愛用と伝わる馬のあぶみ(鍋島報公会蔵)

▲「疏導要書」(そどうようしょ、鍋島報公会蔵、佐賀県立図書館寄託))。佐賀藩の南部長垣によって1834年に書かれたもので、藩内河川の事績が細かく記されている。写真は石井樋の見取り図。佐賀県立図書館で複写本の閲覧が出来る。

▲成安の数々の逸話も収録された「葉隠」の写本(鍋島報公会蔵、佐賀県立図書館寄託)。佐賀県立図書館で複写本の閲覧が出来る。

▲蛤水道(佐賀県吉野ヶ里町)。夏場の田畑の水不足を解消するため蛤岳に作られた水路で、今も往時の姿を残す。成安の功績に感謝の意を示すため、毎年5月に「兵庫まつり」が開催されている。

探訪コース

① 成富兵庫成安公誕生之地

佐賀市鍋島町増田の土手沿いに、誕生400年を記念して建てられた顕彰の碑。

車で5分

 

② 石井樋公園・さが水ものがたり館

石井樋は成安が考案した大型取水施設で、彼の偉業を今に残す貴重な遺構。

車で約10分

 

③ 築山公園

成安は築山の南麓に住んでおり、築山頂上には成安夫妻等の石碑や追腹殉死者の墓石がある。

車で約10分

 

④ 葉隠発祥の地

武士のあるべき姿を様々な事例で記した「葉隠」。その口伝と執筆が行われた「朝陽軒」があった。石碑は林の中に建っている。

車で約30分

 

⑤ 本行寺

成安の遺言により、遺体は築山、遺影は菩提寺である本行寺に埋葬された。昭和15年の墓地改葬の際、遺骨も本行寺に移されている。

     

佐賀の賢人たちメニュー

コラム「義祭同盟とは?」

(C)一般社団法人佐賀市観光協会. All rights reserved.