鍋島直正 ~幕末屈指の名君~

日本をリードしたリーダーシップ

▲安政6年11月、江戸溜池邸にて撮影された46歳の直正(鍋島報效会蔵)

家督相続、そして財政再建

佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の嫡子として江戸の佐賀藩邸に生まれる。17歳で家督を継ぎ10代藩主になると様々な改革を断行し、佐賀藩を幕末の雄藩にのし上げた。家督相続当初、藩の財政は逼迫していたため、直正はまず粗衣粗食令を出し、自らも率先。藩の役人の大幅なリストラ、借金の整理、磁器・茶・石炭などの産業育成を通して財政改革を行った。

 

あらゆる方面へ及ぶ藩政改革

教育にも力を入れ、藩校「弘道館」の拡充や洋学を学ぶ蘭学寮を設置。子息の成績によって父親の禄を決定するといった「文武課業法」を制定するなど、徹底して勉学を推奨した。また、医学寮を設置し、当時世襲制が当たり前だった医者の免許制度を日本で初めて取り入れ、さらに当時不治の病であった天然痘の根絶のため、種痘を自らの長男で試すことでその信頼性を世に示した。

 

最先端の軍事技術で明治維新へ

そして長崎警備の名目の元、国防のための兵器の必要性を感じ、鉄製大砲鋳造のための反射炉を築いたり、理化学研究所「精煉方」や海軍伝習機関「三重津海軍所」を設置、国産初の蒸気機関の開発など、幕末佐賀藩の技術力は日本の最先端を走っていた。

その結果として佐賀藩の軍事力と多くの優秀な人材は、明治維新期に大きな役割を果たし、日本の近代化を推進する原動力となった。

年表(概略)

西暦(和暦)・数え歳 出来事
1814(文化11年)・1歳 12月7日誕生。幼名貞丸
1830(天保元年)・17歳 家督を継ぎ、佐賀藩第10代藩主となる
1835(天保6年)・22歳 佐賀城二の丸火災、本丸再建を表明
1840(天保11年)・27歳 藩校弘道館を拡張/長崎警備を強化
1844(弘化元年)・31歳

火術方を設け砲術研究、オランダ軍艦パレンバン号に乗り込み視察

1849(嘉永2年)・36歳 世子の淳一郎(直大)に種痘をためす
1850(嘉永3年)・37歳 築地反射炉建設に着工
1851(嘉永4年)・38歳 医学寮と蘭学寮を併設/神ノ島・四郎島間の埋立着工
1852(嘉永5年)・39歳 精煉方を設ける
1858(安政5年)・45歳 三重津御船手稽古所を設ける/医学寮を移転、好生館とする
1861(文久元年)・48歳 隠居して閑叟を号する
1865(慶応元年)・52歳 長崎に英学塾「致遠館」を設ける

1869明治2年)・56歳

上院議長拝命/大納言となる/北海道開拓史長官となる
1871(明治4年)・58歳 1月18日死去

ショック!意気揚々の江戸入りのはずが…

17歳で家督を継いだ直正が、意気揚々と江戸から佐賀へ向かう途中、品川の宿で何と足止めを食らった。実は江戸の商人たちが未払い金の返済を求めて立ちふさがっていたのだ。直正は「これほどまでに藩の財政が逼迫しているのか」とショックを受け、それがトラウマとなって倹約令など藩の様々な財政改革に打ち込んでいく。これらの借金も、その8割を放棄させ、残りを50年賦にするという、ほとんど踏み倒しに近い力技。しかしこの経験が佐賀藩が雄藩への道を進む一つのきっかけとなっていく。

 

▲「鍋島直正公御実歴壱百図」(西村慶介氏蔵・佐賀県立博物館保管)に記された、品川宿での足止めの様子。

切腹を諌め、死罪を許し、多くの人材を次世代に!

直正は家来の命を軽んじるようなことは一切しなかった。事実、江藤新平や大隈重信、副島種臣らも当時重罪とされた脱藩をしているが謹慎処分で済んでいる。また、失敗続きの大砲鋳造の責任者が切腹を考えると「死のうとは何事だ!」と奮起させている。まれに死刑が決まった時は涙を流し、執行前夜は酒を禁じていたという。慈愛と人道主義に満ちた人柄だった。

 

▲「築地反射炉絵図」(鍋島報会蔵)。直正が鉄製大鵬鋳造のために築地(現在の佐賀市長瀬町)に作らせた日本初の反射炉。のちに、幕府からの大砲の注文に応えるため、市内の多布施にも作らせた。

敵か?味方か?のらりくらりとかわす大胆さ

尊王か佐幕かで揺れる中、当時強大な軍事力を持つ佐賀藩の動向は各藩の気になる所だった。味方にしようと来た幕府の使いに、直正は「痔でござってな」と断り真意を見せない。最後は倒幕軍につき、明治維新の大きな原動力の一つとなったが、直正は程なくして亡くなってしまう。「戦国の世に生まれていれば、もう少し面白い世を送っていたかもしれぬ」。死ぬ間際、そう漏らしたといわれる。

 

▲安政6年11月、江戸溜池邸にて撮影された46歳の直正(鍋島報效会蔵)。藩内で様々な改革が奏功していた、正に全盛期の姿。

勉強するなら佐賀!中央からの地方留学受け入れ

明治政府の中心的人物であった岩倉具視は、多くの人材を輩出した佐賀藩の教育に強い関心を示し、自分の二人の息子を佐賀へ留学させた。当時、中央から地方への留学は珍しく、いかに優秀な教育の場として注目されていたかが分かる。二人の姿は、長崎にある佐賀の英語学校「致遠館」の集合写真にも見ることができる。

 

▲長崎「致遠館」の写真に残る、岩倉具視の息子・岩倉具経(左)と具定(右)。

ギャラリー

▲「鍋島直正和蘭船乗込図」(鍋島報效会蔵)。開明的だった直正は、長崎港にオランダ船が入港すると、その船に乗り込み熱心にその技術を学んだ。当時、外国船に実際に乗り込んだ大名は直正一人と言われる。

▲鍋島直正二行書「先憂後楽」(佐賀県立博物館蔵)。国を思うものは、常に民に先立って国のことを憂い、民が楽しんだ後に自分が楽しむという意味で、直正の座右の銘。正に天下国家を憂い続けた直正の人柄を表す言葉。

探訪コース

① 佐賀城本丸歴史館

直正が再建した本丸御殿を忠実に再現した歴史資料館。まずはここで直正の功績や幕末佐賀藩の歴史を学ぼう。ガイドによる説明もあり。

徒歩で約15分

 

② 佐嘉神社

佐賀藩を大きく飛躍させた直正の威徳を讃え創設された神社。この神社の象徴ともいえる、復元カノン砲に注目。

徒歩で約5分

 

③ 徴古館

鍋島家代々の伝来品を管理・展示している博物館。本物こそが放つ魅力を肌で感じよう。

徒歩で約25分

 

④ 築地反射炉跡

直正が長崎警備のため鉄製大砲を鋳造するために建設した国内初の反射炉跡。日本の近代化産業の原点とも言える場所。

車で約10分

 

⑤ 隔林亭(神野公園)

直正の別邸「神野のお茶屋」の茶室を復元したもので、幕末維新期には迎賓館としても利用された。ひと時の間、殿様気分を味わおう。

   

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